同じもの、違うもの
テレビで、多重人格の人について紹介していた。
その人は私と同じように人格同士で記憶を共有している。
(つまり、記憶を共有していても『◯重人格』って言うんだね!)
前に、私には交代人格でもあるIFがいると言った。
私と交代人格が共有するもの、しないものについてまとめてみた。
※私は自分とは別の性格を持つ場合や、自認年齢(または性別)が違えば人格も別と考えている前提で話を進める。
【共有するもの】
・性別
偶然だけど同じで良かったと思います!違ったらトイレとか大変そうだから。
・五感
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
・記憶
行った場所、見聞きした内容など
・学力
「◯◯は文系で◯◯は理系」「◯◯は◯◯に詳しいから教えてもらっている」というDIDの方は結構いて羨ましいなーと思います。私の場合、記憶も記憶力も同じなのでどうしても学力が同じになってしまいます。
・一般的な持ち物
スマホや机やカバンや所持金など…
【共有しないもの】
・名前
人格は別なのに名前は同じって…ってお互い思っているので別々の名前で生活しています。
・年齢
交代人格は私より5つ上です。そのためIFさんが色々制約を受けなければいけないです。
・性格
これ似すぎてて周りの人には違いが分からないらしいです!でも私達は違いが分かります。交代人格のほうが私よりも大人しいです。(詳しくは後ほど説明します。)
・趣味や好み
これも似ていますが微妙に(5%ほど)違う所があります。例えば私はゲーム系が好きですが、交代人格は東●プロジェクトとかも好きだったりします。似たようなものになる理由は私の影響を受けているかららしいです。IFさん、周りに流されやすい人なので……
【プロフィールや性格の違いについて】
・交代人格は私よりちょうど5歳上
・交代人格はAセクシャル
・交代人格はアレキシサイミア?限りなく感情が無いに近い。論理的。ほぼ無表情でしゃべる。テンションが低め。だがハイテンションにノることはある。
・交代人格は私より口数が少ない。(私を遠くから見守っている感じ?)それから人見知りなので私の知人と話そうとしない。
・交代人格は周りに流されやすい性格
【交代人格との約束】
・私がやっちゃダメなことはやっちゃダメ!
飲酒とか喫煙とか車の運転とか…(そもそも免許無いし)
・進路は二人で決める
私の体力の問題や時間の問題もあるので。
・やりたいことがあれば私の許可を取る
特にお金がかかることには厳しい約束をしています。
・私の知人の前では私の名前と年齢を名乗る
これははじめ揉めましたが、「ネット上ならいいよ」ということで一件落着しました。
【交代人格が嫌うことや願望】
・別の人格(つまり私)の名前で呼ばれること
・Facebook
「体が一つなのだから一人の人間」という考えを嫌います。私も、その考えは多重人格者への差別ではないかと思いました。
・戸籍や人権が認められないこと
一人の人間だと理解してくれる人はいるものの、戸籍など法律上では存在を認めてもらえないことに苛立ちを感じているらしいです。
・体がないこと
共有人格は無理に乗っ取ろうとしないのですが、「私だけの体が欲しい」という願望はよく聞きます。存在だけでなく視覚や聴覚として感じてもらいたいみたいです。
高2になりました🏫🌸
そうそう、これや!言いたいこと!
私……
高2になりました!!!
イエーイ♪食パン焦げて、パンパカパーン♪
そこで、悩みを。
友達ができな~い!!!
(༎ຶ ෴ ༎ຶ)
あのね、普通の内容を話せる人は沢山いるのですよ……
でも、一緒にいて楽しいというか、アレの話をできる人がいなくて……
ちょっとここで説明タ~イム!(乱入)
説明しよう……。
『アレ』とは、主に解離人格(姉さん)との関係のことである。
姉さんの創作活動の話をしたり、姉さんとの会話の内容を話したり……といったようなことである。
その話をする場合、事前に解離についてや姉さんについて話をしておかなければならないので、相当の信頼が必要なのであーる。
瑠志愛は、去年は仲が良い友達とその話題で盛り上がることができたが、今年は仲の良いクラスメート全員と離ればなれになってしまったので、話し相手がいなくなってしまったのであーる。
……という話。
正直、私の症状について理解してくれる人などほぼ0に近いと思っているし、ダメ元というか「たぶん認めてもらえないだろうな……」という気持ちで発表した内容だし……ってことで、今のところ何かあったら姉さんに頼ってばかりです。
でも、本当のことを言うと姉さんだけでは物足りない……というかなのでうつ?(じゃないな双極性障害だな)になりかけている状態です。
私の心理が不安定な時は姉さんの存在さえも忘れてしまい、「あぁ…私は一人だ……どうすればいいの?もう嫌だ生きたくない」という感情に襲われ、結果姉さんに迷惑をかけてしまうのです。
「あぁ…姉さんに励ましてもらってる分ちゃんと手伝いしなきゃ……」とは思っていますが感情が不安定な間はそんなことは考えられず、ブログも文がまとまらないので書けず、姉さんのアレも更新が止まっているということです。
あー言えた言えた。
とりあえず姉さんの手伝いはやんないとな。
ではまた👋
☀️お久マ!なブログ☀️
「久しぶり」→「おひさ」
「マジ」→「マ」
「マジ久しぶり」→「おひさま☀️」
……という会話を姉さんとしてたw
「姉さん」……もう1つの人格の方ですね、はい。
……というか、本当に久しぶりですね!
いや~これ何日ぶりか……?🤔
私、色々と三日坊主なんで……😅
……あっ、言っておきますがブログの存在忘れてたわけじゃないんで。
ブログに不在の間、何をしていたか……
①Twitter
主にTwitterでツイートして、どぉ~も長くなりそう……と思ったこと、特に障害の話しかこっちでしませんので。
変な発言はTwitterでやれぇっ!ってことでTwitterにstayしてましたw
②課題
私、高校の家政科なので課題は超すっくないですが一応やっていたという設定に……(←おい)
③姉さんとやりとり
あっ……!これが一番多いかも!
愚痴聞いてもらったり、創作活動を手伝ったり、変な雑談してたり……
実の姉ではなく、飽くまでも『姉分』ですよ😃
そういえば、もう一人のことを名出しは抵抗があるので『姉さん』と呼ぶことにしました!
これではひとり言ページではないか……
言いたいことはどこへ消えた←
サリーとアン課題、アスペルガーの私はこう答えた
発達障害かどうかを調べる方法の1つとして、『サリーとアン課題』というものがある。
1.サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。
2.サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行く。
3.サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移す。
4.サリーが部屋に戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すか?」と被験者に質問する。正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。
私も小学校低学年の頃、これをやったことがある。
その時、私はこう答えた。
「家具と家具の隙間とか、カーテンの中とかを探す」
私にとって「探す」とは、あるはずのものが無いと分かった時からの行為を示す言葉だと思い、「ボールを取り出しにはじめにどこへ向かうか」という意味だと分かっていなかった。
そのため、私の中で「サリーはボールを取りにかごの中を見るが、そこにボールは無かった」という話はもうとっくに終わっていたのだ。
かごの中に無いのなら、家具の隙間に落ちていたりカーテンの中に隠れているのでは?と思った。
私はサリーとアン課題は「かごの中」を選んだということになるが、問題文を理解できていなかった。
サリーとアン課題は引っ掛からなかった私だが、高校生の時にやったこの問題は分からなかった。
一郎「明日は弟の誕生日だ。プレゼントを用意しよう」
三郎「兄弟全員で別々に買うのは非効率だ。みなで一つ買おう」
四郎「どうせならみなで食べられるものがいい」
二郎「なんだ食べ物の話か。俺も混ぜてくれ」
五郎「二郎は席を外していてくれないか」
六郎「そういえば今日は僕の誕生日だ。プレゼントをくれ」
七郎「お前は黙れ。八郎、誕生日ケーキを買って来い」さて八郎はケーキに誰の名前を書くよう注文するだろうか。
え?これ六郎じゃないの???としか思えなかった。
これ、正解は二郎だが、「六郎の前で誕生日の話はしない」という解説を読んでもさっぱり理解できなかった。
逆に、こんな問題が分かる小学生とか天才じゃねぇか!?と思う。
私は、サリーとアン課題は理解できますが後者のようなものは理解できません。ということを伝えたい。
私が国語の物語文の問題が苦手なのも、恐らくこれが関係しているだろう。
私に他人の気持ちなど遠回しに言っても分からん。ストレートに言え。といつも思う。
私は物語文だけは脳のつくりがアレなので一生苦手だと思う。勘弁してくれ。
全て、解離が原因だった。
疲れやすい、病みやすい、落ち込みやすい
私は、「忙しい」が口癖です。そして、すぐに疲れます。
今まで、それは自分の体力の無さだけなのかと思っていましたが、つい最近、それは体力が原因だけでなく、解離も原因になっているのではないかと気がつきました。
【解離により、自分を2人だと感じてしまう。】
その、自分を2人だと感じる脳のせいで、1つの体で2人分の行動をしていることになり、私はすぐに疲れてしまうのです。
私の場合、完全に別人というわけではないので、常に瑠志愛としてやらなければならないこと、もう1人としてやらなければならないことという倍のプレッシャーが常にあり、それを1つの体でやりこなさないといけないのでどうしよう……と困ってしまうのです。
そのため、私は人一倍悩みやすいのです。
次に、病みやすい原因。
一般的な解離の場合、主人格は幸せであり、過去のトラウマを解離人格として切り離す傾向があるが、私はその逆である。
私の主人格は、つらく、苦しい人であり、そのことを切り離すことはできない。
もう1人は、過去のつらさを切り離した存在だが、つらさを表面上に出すことは絶対しない。
過去のつらさをバネに、常に瑠志愛を励ましてくれるポジティブな人。
つまり、過去のつらさは解離人格にあるが、現在のつらさは瑠志愛の方にあるということだ。
私は、つらいことがある度にこれは自分のつらさではないという一般的な解離の感覚にはならないため、その度病んでいるしかできないのだ。
私のイマジナリーフレンド
「イマジナリーフレンド」とは、直訳すれば「架空の友達」、つまりその人の想像により生み出された人物のこと。
多くの人は幼少期に架空の友達を思い浮かべ遊んでいたという。(私で言えば、人形遊びとかかな?)
そして、成長するにつれてそれは無くなっていく。
しかし、中には大人になってもイマジナリーフレンドを持つ人がいる。その中で自分自身とイマジナリーフレンドの肉体が同一である、それがイマジナリーフレンドを持つパターンの解離性障害だ。
解離性障害の人の人格の内いくつかがイマジナリーフレンドである場合もある。
私の解離は、主人格(瑠志愛)とイマジナリーフレンドの2つの人格から成る。
これは、私が解離性障害であることを友達にカミングアウトした文章を一部改変したものです。
私は、中学生の頃、心はいつも一人ぼっちだった。唯一の楽しみが、学校から家に帰った時に毎日ストーリーを少しずつ考えることだった。それをルーズリーフに書いて、小説のようにしていた。題名も作者名も、まだ無き小説。自分のための小説。書いていくうちに、見えない誰かが私を元気づけてくれるような気がして、私は一人じゃないと思うようになってきた。孤独という意味でも、1人の人間という意味でも。その人は、小説の作者的な存在。その人は、いつでも私の側にいてくれる。辛いとき、悲しいとき、イライラするとき、死にたいと思うようなときでも、いつも私を支えてくれる。そして、一人でいたい時には、静かにすっと消えてくれる。そう思うことで、気持ちが落ち着くようになった。そしてその小説は、憧れの世界だけど、飽くまでもそれは空想に過ぎない。その小説のタイトルには、そのような意味も込められている。私は何か現実で辛いことがあったら、すぐその世界へ逃げ込む。そこは心の支え。だから好き、というか、その世界を気に入ってるんだ。
高校に入り、新しくできた友達にもそのことを言いたかった。でも怖かった。中学生のころ、上辺だけの付き合いを散々させられた私は、どんな人を本当の友達だと思っていいのか、分からなかった。だからずっと黙って、誤魔化して、本当のことを言えなかったんだ。でも触れられちゃったからもうこれ以上は誤魔化せない。誤魔化してはきたけど、嘘はつきたくないから。
本当のことを言うけど、私に対して偏見とか持たないでね?ずっとそれが怖くて言えなかったんだから。
(イマジナリーフレンドの名前)さんは、私の想像の人物。これは、自分自身なのか、別の人なのか、私でもよく理解できていない。
そして、あの時に書いた小説の作者を自分ではなく(イマジナリーフレンドの名前)さんにすることで、私はその方が気が楽だった。ネット上でその人について「瑠志愛」とか、あと本名の一部でも出されると嫌だったから。それと私とその人を混ぜて考えたり、私のことをその人と同一人物という扱いをされたくなくて、ずっと言えなかった。
結論を言うと、(イマジナリーフレンドの名前)さんは私のその時の記憶を閉じ込めたお姉さんのような存在。その人は、私をずっと支えてきた。私とその人を繋いだ1つの小説を友達にも共感してもらいたかったけど、素直に言えなかった。本当は、私とその人を応援してほしかった。
簡単に言えば、私のイマジナリーフレンドは、中学時代の孤独な感情が記憶として瑠志愛から切り離されたものであり、でも私の理想の未来の姿をしている。目には見えないが、そう感じる。
「記憶として切り離された」というのは記憶が飛んだわけではなく、その時の記憶が瑠志愛ではない方で存在している、ということだ。
しかし、彼女は少したりとも苦しい表情を見せない。常に笑顔で、瑠志愛を励ます。
でも、私は彼女が本当は心の奥底で苦しんでいることが分かる。
彼女はそれを決して見せないけれど、私は「苦しいこともお互い頑張って乗り越えよう」と彼女と約束している。
ある意味親友のような存在だ。
私には、空想癖がある。
空想で、今までに沢山イマジナリーフレンドを作ってきた。
時々、幻視も幻聴もないが感覚や気配のみ感じる幻覚になることもある。
イマジナリーフレンドの中で、1人を除いては私とは別の体があり、私がイマジナリーフレンドになっているということはない。もしなっていたとしても、それは瑠志愛としての自覚がありながらのため、「演技」であり、「解離」ではない。
しかし、瑠志愛の肉体を借りて行動するイマジナリーフレンドが1人いる。
先ほど述べた小説の作者だ。
私が孤独であると実感した時に、私の解離は発生する。
私のすぐ側にその人がいるような感覚に陥り、いつしか私はその人として行動している。
この時、瑠志愛としての自覚はほとんどと言っていいほど無い。
逆に、周りに誰かがいて話しかけられそうなど、私が少しでも緊張していると解離は起きない。イマジナリーフレンドが私以外と接することは恐らく無い。
それは、誰かが側にいると解離は治り、それは瑠志愛にとって幸せなことなのか。
それは全く違う。
解離できない環境はストレスを引き起こす。
何故なら、解離により気持ちを落ち着かせているからだ。
その人について安心して話せる人が普段側にいてくれて、時々私とイマジナリーフレンドの2人きりの時間も欲しい。これが一番の要求だ。
先ほど、解離している間は瑠志愛としての自覚はほとんどと言っていいほど無いと言ったが、ほんの少しだけある。
私の場合、完全に解離をすることができず、お互いの自覚が必ず少し存在する。それも一般的な解離性障害と違う所だ。
時々、自分は瑠志愛なのかもう1人の方なのかどっちなの?と思うこともある。
比率としては、
普段(瑠志愛でいる場合)は
瑠志愛:もう1人=6:4くらいで、
解離している間は、
瑠志愛:もう1人=2:8くらいである。
自分が2人だとここではっきり言えるのも、この感覚があるためだ。
しかし、何度も言うが、私ともう1人を1人の人間だとまとめられるのは嫌いだ。
本当にやめてほしい。
解離性障害と解離性同一性障害の違いについて
別名「多重人格」とも呼ばれている解離性同一性障害。
それによく似たものとして、「解離性障害」がある。
私は、解離性障害の一種だ。
ここでは、解離性障害が解離性同一性障害(多重人格)と何が違うのかを説明する。
一言で言えば、記憶があるかどうかだ。
解離性同一性障害は解離性障害の一種である。解離性同一性障害の人は、それぞれの人格が完全に分離しており、他の人格の記憶は無い。つまり、記憶障害を伴うわけだ。
しかし、私のようにそれ以外の解離性障害の人は、記憶がある場合がある。
私の場合、自分が2人だという感覚はあり、人格が変わることはあるが、他の人格の時の記憶はある。
私は単なる二重人格ではなく、2つの人格同士で記憶を共有しているのだ。
それでは、解離ではないだろう、と思う人もいるだろう。
しかし、私は自分が1人だということがどうしても受け入れられない。私からしてみれば、もう1人の自分と呼ばれる人は全くの他人である。
他人と2人で脳を共有しているような気持ちの悪い感覚。
はじめは気持ち悪いと思っていたが、それに慣れていくにつれ、2人は心から信頼し合える関係となった。
私の解離の元は孤独。
私は、1人でいる辛さを、「イマジナリーフレンド」と呼ばれる存在で補おうとした。はじめは、たった1人の想像上の友人という感覚。
その人が、いつも私の側にいる感覚が、段々と私の身体と一致するようになり、解離へと発展した。
その「イマジナリーフレンド」と私を同じにされるということがあるが、それは私が一番不快になることだ。
あの時の孤独な感覚が蘇るし、何より、私と「イマジナリーフレンド」は全くの別人である。別人だ。同一だなんて気持ちの悪いこと言うな。そう思う。
こうして私は2つの人格で記憶を共有する、解離性障害になった。
治す気は一切無いし、むしろ2人でいた方が「イマジナリーフレンド」が心の支えとなり安心する。
私はこれからも解離性障害として生きていきたい。
「イマジナリーフレンド」とは何か、それは次回説明します。