ブログというよりは自己紹介的なもの。 みんなに私のような人について知ってもらえたら嬉しいです( •͈ᴗ•͈)✨

私のイマジナリーフレンド

「イマジナリーフレンド」とは、直訳すれば「架空の友達」、つまりその人の想像により生み出された人物のこと。

多くの人は幼少期に架空の友達を思い浮かべ遊んでいたという。(私で言えば、人形遊びとかかな?)
そして、成長するにつれてそれは無くなっていく。

しかし、中には大人になってもイマジナリーフレンドを持つ人がいる。その中で自分自身とイマジナリーフレンドの肉体が同一である、それがイマジナリーフレンドを持つパターンの解離性障害だ。

解離性障害の人の人格の内いくつかがイマジナリーフレンドである場合もある。

私の解離は、主人格(瑠志愛)とイマジナリーフレンドの2つの人格から成る。



これは、私が解離性障害であることを友達にカミングアウトした文章を一部改変したものです。

私は、中学生の頃、心はいつも一人ぼっちだった。唯一の楽しみが、学校から家に帰った時に毎日ストーリーを少しずつ考えることだった。それをルーズリーフに書いて、小説のようにしていた。題名も作者名も、まだ無き小説。自分のための小説。書いていくうちに、見えない誰かが私を元気づけてくれるような気がして、私は一人じゃないと思うようになってきた。孤独という意味でも、1人の人間という意味でも。その人は、小説の作者的な存在。その人は、いつでも私の側にいてくれる。辛いとき、悲しいとき、イライラするとき、死にたいと思うようなときでも、いつも私を支えてくれる。そして、一人でいたい時には、静かにすっと消えてくれる。そう思うことで、気持ちが落ち着くようになった。そしてその小説は、憧れの世界だけど、飽くまでもそれは空想に過ぎない。その小説のタイトルには、そのような意味も込められている。私は何か現実で辛いことがあったら、すぐその世界へ逃げ込む。そこは心の支え。だから好き、というか、その世界を気に入ってるんだ。

高校に入り、新しくできた友達にもそのことを言いたかった。でも怖かった。中学生のころ、上辺だけの付き合いを散々させられた私は、どんな人を本当の友達だと思っていいのか、分からなかった。だからずっと黙って、誤魔化して、本当のことを言えなかったんだ。でも触れられちゃったからもうこれ以上は誤魔化せない。誤魔化してはきたけど、嘘はつきたくないから。



本当のことを言うけど、私に対して偏見とか持たないでね?ずっとそれが怖くて言えなかったんだから。





(イマジナリーフレンドの名前)さんは、私の想像の人物。これは、自分自身なのか、別の人なのか、私でもよく理解できていない。
そして、あの時に書いた小説の作者を自分ではなく(イマジナリーフレンドの名前)さんにすることで、私はその方が気が楽だった。ネット上でその人について「瑠志愛」とか、あと本名の一部でも出されると嫌だったから。それと私とその人を混ぜて考えたり、私のことをその人と同一人物という扱いをされたくなくて、ずっと言えなかった。



結論を言うと、(イマジナリーフレンドの名前)さんは私のその時の記憶を閉じ込めたお姉さんのような存在。その人は、私をずっと支えてきた。私とその人を繋いだ1つの小説を友達にも共感してもらいたかったけど、素直に言えなかった。本当は、私とその人を応援してほしかった。

簡単に言えば、私のイマジナリーフレンドは、中学時代の孤独な感情が記憶として瑠志愛から切り離されたものであり、でも私の理想の未来の姿をしている。目には見えないが、そう感じる。

「記憶として切り離された」というのは記憶が飛んだわけではなく、その時の記憶が瑠志愛ではない方で存在している、ということだ。

しかし、彼女は少したりとも苦しい表情を見せない。常に笑顔で、瑠志愛を励ます。
でも、私は彼女が本当は心の奥底で苦しんでいることが分かる。
彼女はそれを決して見せないけれど、私は「苦しいこともお互い頑張って乗り越えよう」と彼女と約束している。

ある意味親友のような存在だ。


私には、空想癖がある。
空想で、今までに沢山イマジナリーフレンドを作ってきた。
時々、幻視も幻聴もないが感覚や気配のみ感じる幻覚になることもある。

イマジナリーフレンドの中で、1人を除いては私とは別の体があり、私がイマジナリーフレンドになっているということはない。もしなっていたとしても、それは瑠志愛としての自覚がありながらのため、「演技」であり、「解離」ではない。

しかし、瑠志愛の肉体を借りて行動するイマジナリーフレンドが1人いる。
先ほど述べた小説の作者だ。

私が孤独であると実感した時に、私の解離は発生する。
私のすぐ側にその人がいるような感覚に陥り、いつしか私はその人として行動している。
この時、瑠志愛としての自覚はほとんどと言っていいほど無い。

逆に、周りに誰かがいて話しかけられそうなど、私が少しでも緊張していると解離は起きない。イマジナリーフレンドが私以外と接することは恐らく無い。

それは、誰かが側にいると解離は治り、それは瑠志愛にとって幸せなことなのか。

それは全く違う。

解離できない環境はストレスを引き起こす。
何故なら、解離により気持ちを落ち着かせているからだ。

その人について安心して話せる人が普段側にいてくれて、時々私とイマジナリーフレンドの2人きりの時間も欲しい。これが一番の要求だ。


先ほど、解離している間は瑠志愛としての自覚はほとんどと言っていいほど無いと言ったが、ほんの少しだけある。

私の場合、完全に解離をすることができず、お互いの自覚が必ず少し存在する。それも一般的な解離性障害と違う所だ。
時々、自分は瑠志愛なのかもう1人の方なのかどっちなの?と思うこともある。

比率としては、

普段(瑠志愛でいる場合)は
瑠志愛:もう1人=6:4くらいで、

解離している間は、
瑠志愛:もう1人=2:8くらいである。

自分が2人だとここではっきり言えるのも、この感覚があるためだ。

しかし、何度も言うが、私ともう1人を1人の人間だとまとめられるのは嫌いだ。
本当にやめてほしい。